まだ雪の溶けきらぬ初春。
ささやかな日差しが雪に反射する白い山道を、二つの足音が駆けていた。

『早くしろよ、麻葉童子!』

長い耳をなびかせ、風のように駆けて行くのは、あやかしの乙破千代。

「…ハァ…そんなこと、言っても…ハァ…」

そのあとを、肩で息をしながらやっとこついて走るのは、麻葉童子。
乙破千代の軽快な走りに比べ、やや鈍い。
それもそのはずで、この山の麓から今のいままで、二人は走り通しなのである。
鬼である乙破千代は疲労は感じないが、麻葉童子はまだ幼く、その足で険しい獣道を、それも全速力で登り続けるのは難しい。
それでもついていけるのは、気を遣った乙破千代が時々先で待っていてくれるのと、童子自身の精神力の賜物なのだけれど。

『早くしろってのー! そんなんじゃお前、日が暮れちまうぜ』
「日が暮れるもなにも……僕は今朝からお前に走らされ続けてるんだぞ…もう少し速度を緩められないのか」
『ぜってー無理! 遅いお前が悪い』
「………ああそう」

けらけらと笑う乙破千代に、既に言い返す気力もなく、童子は悟りきったかのようにため息をついた。

「しかし…一体どこを目指してるんだ?」
『だから言ったろ。“面白いとこ”』
「それでは抽象的過ぎてわからない」
『っかー。ガキのくせにいちいちうるせーなあ。とにかく俺についてくりゃわかるんだよ』
「………なら。あとどれくらいでそこに着くんだ?」
『もう少し』
「さっきもそう聞いた」
『今度は本当だぜ』
「……さっきは嘘だったのか」

気にすんなー!と乙破千代の飄々とした声が響く。
童子は再び小さくため息をつくと、あともう少しと自分自身に言い聞かせ、走り続けた。

















――――頂上。
京よりも気温が低い山の頂上に、乙破千代と麻葉童子の二人はいた。
吐く息が白い。

「ここがお前の言っていた“面白いとこ”か」
『おう』
「…………岩しか見えぬが」

そう。
童子の言うとおり、この山の頂上は切り立つような断崖絶壁で成り立っていた。
流石に人間の童子にその崖は上れず、実は頂上とは言ってもあくまで「人間の足で行けるところまで」でしかない。
現に、童子が見上げるほどの崖が、目の前に立っているのである。

これだから人間はよぅ、と乙破千代が肩を竦めた。

『……ま、しょうがねーか。だからこそ今まで見つからなかったんだからなあ』
「何の話だ?」
『まー見てろって』

とことこと岩の巨大な割れ目に近付くと、乙破千代はその割れ目をつぃ、と指で軽く撫でた。
その瞬間。

―――ピシ

割れ目が小さく音を立てた。
そしてそれは、ゴゴゴゴ…と巨大な地響きを立ててゆっくりと開く。
やがて、砂塵が舞う中、人一人通れるほどの入り口が、ぽっかりと出来た。

唖然とその様を見つめる童子は、『おーい』と乙破千代の呼ぶ声で我に返った。

『何ボケッとしてんだ、入るぞ』
「あ、ああ」

こともなく入り口に滑り込む乙破千代を、童子は慌てて追いかけた。

















穴の中は一本道だった。
闇の中を、乙破千代の鬼火が発する僅かな光が頼りなく足元を照らしている。

「さっきのは…一体何だったんだ?」
『さーな。俺もまだ一回しか来たことねえから、はっきりとはわからねえけど…。ひとつ言えるのは―――』

前を歩いていた乙破千代の足が止まり、そのあとをついていた童子も自然と立ち止まった。
薄暗くてよくわからないが、声の響き具合からして、やや広い場所に出たようだ。

『さっきのあれは、結界だ』
「結界…?」
『おう。入り口にな、こう、幾重にもかけられてた。
 それだけ厳密で、しかも強力なモンなら普通は都の人間だって、少しぐらい霊感持ってる奴にもわかるだろうが、どっこい霊気が殆ど漏れてねェ。鬼である俺だって、偶然この山に登ったときに見つけたんだ』
「…僕にも、わからなかった」
『だろ。そんな面倒臭ェ結界、普通はねェよ。
 でな、今までは強力すぎてあの岩に触れることすら出来なかったんだ。なのに最近、ここ何日か――結界が弱まってきていた』
「弱まってきてた…?」
『理由は知らねーけどな。この俺が、ほんの少し圧力をかけただけで崩壊した』
「じゃあさっきお前がやったのは…?」
『こないだ、こっから退散するときよわーい俺の結界をはってたんだ。結界というより単なる目くらましだな。さっきのはソレ』

鬼火が少しずつ、奥へと移動する。
案外部屋は広く、無意識にその奥へ奥へと視線が集中する。

『――で。そんな珍しい結界で、後生大事に何を護っていたのやらと思ってたら…』

鬼火が不意に止まった。
そこは巨大な柱の足元のようだった。
鬼火はそこからゆっくりと、上にあがっていく。

『よーく見てろ』

岩がきらりと光った。
否。
岩が光るわけがない。
それは―――

巨大な氷の柱だった。

「こんな立派な氷柱、見たことない…」
『俺が言いたいのはそこじゃねェ。もっと見てろ』
「……?」

怪訝そうに眉をひそめた童子は、言われたままに鬼火の輝きを追って行く。
やがて、ある一点で鬼火がぴたりと止まった。
そこに照らされたのは、





「に、ん…げん……?」





一人の人間、それも、少女が眠るようにして固く目を閉じてそこにいた。
その頬は透き通るほどに白く、生の息吹がまったく感じられない。

『手を触れてみろよ』
「だ、だが…」
『いいから』

半ば強引に乙破千代に腕をひかれる。
余りの光景に、思考が追いつかない。
そうして童子は、自分よりもずっと巨大なその氷の柱に、ぺたりと手のひらを当てる。

『ほら』
「………!」

かすかに。
本当に、微かだけれど――…





とくん





弱弱しい鼓動が、聞こえた。

「いきて、る…?」

そんな馬鹿な、と思う。
氷の中で生きている人間なんている筈がないし、ましてやこの立派な氷は地面との結合から見て最近出来たものではない。
もうずっと昔、気の遠くなるほど遥かな時間を経たものだ。

なのに、鼓動が聞こえる。
目の前の少女は、ただ眠っているだけだとでも、言うのか。

『ああそうだ』
「…っ、そう簡単に」
『でも聞いたろ。感じたろ。こいつ、生きてんだぜ。ほんとにな』
「………」

信じられない。
…でも、信じないわけにはいかない。
聞こえてしまったから。感じてしまったから。
この少女の、おぼろげな生の感触を。
弱くも、はっきりと。

「…これが、お前の言っていた“面白いとこ”か」
『ああ』

面白ェだろ、と乙破千代はにやりと笑った。
童子は答えず、眠る少女の顔を見つめた。

童子よりも、少しだけ年を重ねているように思える。
少女から大人の女へと、ほんの僅かに足を踏み出したばかり、と言ったところか。
よくよく見てみれば、その顔は赤みこそないものの、まだあどけない。

それに、少しだけ、本当に少しだけ――――



(ははうえに、似ている…)



そんな気がした。

『でも意外だよなー。激強の結界の奥にありましたるは、眠れる美少女ってか。…何かを鎮めた巫女か?』
「巫女…」
『ああ。よくあるだろ。災害を鎮めるために、神に捧げられるって。要は人柱だな』

生贄とも言うか、と呟く乙破千代。
童子は少女を見つめたまま思案する。

「…なぁ、乙破千代」
『何だ』
「この少女………ここから助けられないだろうか」
『ああ!?』

何言ってんだお前、と乙破千代は童子の頭を軽く小突いた。

「いてっ」
『あのなぁ。言っただろーがこれは人柱かもしれねえって! それも、めっちゃ頑丈な結界張って護ってやがったとこなんだぞ。入り口の結界は壊せたけど、この氷自体に張ってある結界は弱まってねェし壊せねェ。そんだけ大事なもんなんだ。ぶっ壊したらそれこそコッチがぶっ祟られるぞ!』
「……鬼が祟りを恐れてどうする…」
『細けーことにこだわんなっての! 触らぬ神に崇りなし!』
「だが…彼女は生きているのだろう?」
『生かされてるんだよこの結界に!』

ばん、と乙破千代が柱を叩く。
その瞬間、ばちりと鋭い音がして、乙破千代は『あちっ』と手を離した。

『……ホラな』

その手を童子に向ける。
黒く焦げた手のひら。

『この氷の結界は、人間ならどうともしねェが鬼みたいな妖は拒絶するんだ。鬼のような、人よりもはっきりした穢れを持ち込みたくないからだ』
「でも、入り口の結界が弱まったみたいに、この結界もいつか…」
『そのいつかを待つってのか? いつになるかもわからねェのに?』
「………」
『…あのなぁ麻葉童子。何をこだわってるんだか知らねーが…』

乙破千代はやれやれと肩を竦めた。

『俺は単に面白ェと思ったからお前をここに連れてきたんだ。何も、これをどうこうさせようとして来たわけじゃねえんだぜ』
「だが……この少女は」
『こいつはもうずっとずーっと昔、お前が生まれるよりも、俺が生まれるよりもはるか昔っからこの状態だったんだ。
 今更それを変えたところで、この娘にとっちゃ迷惑なだけだ。やめとけ』
「………」

おら帰るぞ、と乙破千代はくるりと踵を返した。
続いて鬼火もそれに倣う。
明かりがなくなり、童子もしぶしぶそれに従った。

















「…なぁ乙破千代」
『………』

帰り道。
てくてくと夕日に照らされた山道を下りながら、童子は乙破千代に話しかけた。

「また、ここへ…連れてきて貰えないだろうか」
『………』
「彼女を助けたいとか、そういうことは……もう、言わないから」
『………』
「お願いだ乙破千代」
『………』
「乙破千代!」

ぴた、と乙破千代が立ち止まった。
そして、ハァと大きなため息をつきながら、童子の方を向く。

『わぁーったよ、五月蝿ェなあ…』
「乙破千代っ…」
『ただし。一切妙な気は起こさねェと、そう誓えるならな』
「誓う」

童子は即答した。
その心底真剣な表情に、乙破千代は色気づきやがってまぁと内心呟く。

『お前、年上が好みだったんだな』
「? どういうことだ」
『何でもねーよ』

そうして、二人はいつも通りに、はしゃぎながら都へと駆けていった。










――――童子が母の仇を討つ、ほんの少し前の話。